実録!
江東の小覇王


順風満帆

 

 孫策軍に腹痛を訴える兵が多発していた。連日の雨で飲み水が濁っているのが、原因だという。早急にかめを用意して、水を沸騰させるように、軍にも通達がなされた。その夜、大量のかめを川に並べ、火をくべた。実はこれは孫策が仕掛けた罠。王朗軍の間者の存在に気が付いた孫策はそれを逆に利用し、夜に別働隊を動かすのを悟られない為に、工作を仕掛けたのだった。かめを並べる孫策軍の動きに気を取られた、王朗軍は背後に回る軍に気づかなかった。この別働隊を率いていたのは孫静。孫静は王朗軍の補給線上の要所を急襲する。驚いたのは王朗。王朗はすぐに補給線を奪回しようと、部下の周キンに出兵を命じる。しかし孫策軍はこの動きまで予測し、あっさりとこれを退け、周キンの首を獲った。孤立した王朗は海を渡って、最南端の東治から交州に逃げようとしたが、虞翻の降伏の勧めに従い、ついに孫策は広い会稽郡をも手中に収めた。こうして孫策は丹楊・呉・会稽の三郡を手に入れ、独立への基盤を固めたのだ。残るは各地に広がる反乱分子だけだった。

 孫策が恐れられるのは、平定したその全ての相手の一族全てを皆殺しにしたこと。ただ一人、合浦太守の王セイだけは、母の呉夫人が孫堅の知人だったと命乞いをしたため、助かったが、本人以外の家族は皆殺しにされた。
 孫策はさらに南下し、厳白虎の討伐に向かった。厳白虎は砦を高くして守りを固め、弟の厳ヨを和睦の使者に立ててきた。孫策は和睦に応じたが、厳ヨは孫策との単独会談を求めた。席上、孫策はやにわに白刃をふりかざし、相手の敷物に切りつけた。 この際、厳ヨの体がピクっと反応したのを見て、孫策は言った。
「あなたは座ったまま、飛び跳ねる事ができ、とても俊敏だと聞いている。いや、ちょっとからかっただけだ」
「白刃を見れば、体がそう動くのです」
 厳ヨはそう答えたが、孫策ははったりだと見抜いて、いきなり手戟を投げつけて、その場で殺した。勇猛持って鳴る厳ヨが殺されたと聞いて、厳白虎の兵士は浮き足立った。そこをすかさず孫策は攻め寄せ、散々に打ち破ったのだ。
 厳白虎自身も命からがら許昭の元に逃げ込み、保護を求めた。程普はさらなる攻撃を進言したが、孫策は
「許昭は旧主に恩義を尽くし、旧友に誠意を尽くしたのだ。実に男らしいではないか」
 と言って、そのままに捨て置かせた。
 この頃には、江東・江南で孫策に歯向かう者はいなくなったと考えていいだろう。

 ここで、独立したい孫策を後押しするような出来事が起きる。197年、袁術が突然、帝号を僭称したのだ。孫策はこれを激しく非難しする書簡を袁術に送り、以後絶縁した。ついに江東の小覇王は完全に独立勢力となったのだ。
曹操も孫策の勢いには一目置いていた。袁術への対応策として、孫策を討逆将軍に上奏すると、呉候に封じた。完全な懐柔策である。袁術討伐の命を受けた孫策は、曹操・劉章らと共同戦線を組んで、袁術・劉表軍を討とうとした。時代の風は孫策に向かって吹こうとしていた。


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