実録!
江東の小覇王


快進撃!

 

 秣陵城は孫策が落とした牛渚の砦と劉ヨウの本拠地・曲阿のちょうど中ごろに位置し、牛渚からは長江を遡って東北の方向にあった。もちろんこの城を落とさなければ、孫策軍は曲阿に辿り着く事が出来なかった。この秣陵城を守っていたのは、劉ヨウ軍のセツ礼とサク融という人物。実はこのサク融という人物、『南の呂布』と呼ばれる程の人物だが、その自慢の武勇伝は後世にあまり伝わっていない。少しだけ彼らの説明もしておこう。

 彼らは二人とも陶謙の配下にいたのだが、セツ礼は陶謙を見限り、早くに劉ヨウの下に逃げ込んでいた。サク融は陶謙の元で物資運搬の監督官をしていた。しかし物資を横領して財力を蓄えると,仏教の寺院を造った。その後も徐州で仏教を熱心に広め、その信者の数は一万を越えていたという。そんな時に起こったのが、曹操の徐州大虐殺。サク融は信者を皆連れて南方の広陵に逃げた。広陵は豊かな土地だったが、その物資に目をつけたサク融は広陵太守の趙イクを殺害、広陵で略奪を行い、そのまま秣陵のセツ礼と合流して劉ヨウを盟主としていたのである。仏教を語りながら、略奪や殺人を犯すあたり、かなりの狂信者を抱えたカルト的宗教軍団とも見て取れる。恐らくは劉ヨウの配下というよりも、劉ヨウに協力した宗教団体と見た方が良さそうな感じさえする。

 さて話しを元に戻そう。セツ礼はまず、サク融を孫策に向かわせ、自分は秣陵城の守りを固めた。しかし秣陵城の南で孫策軍と激突したサク融軍は、緒戦でいきなり大敗してしまう。孫策軍の強さを知った彼らは少し引いたところに軍営地を築き、そこに篭城を始めた。これはさすがの孫策軍にも面倒な作戦だった。ただでさえ、死を恐れないカルト軍団の篭城は全く出撃してこない状況で、時間ばかりが過ぎていく状況だった。そんな中、横江津・当利口から、樊能・于糜軍が迂回して牛渚の砦を取り返すべく進軍してきたという情報を入手した。このままでは多方面からの攻撃を許す事になってしまう。そこで孫策軍は奇策に打って出る。何と、篭城して出てこないサク融軍を置き去りにし、秣陵城を急襲したのだ。

 セツ礼はサク融が足止めしているはずの孫策軍がまさか秣陵に来るはずはないとふんでいたのか、孫策の攻撃を受けると、たいした抵抗をすることもなく、秣陵城は簡単に落城してしまう。孫策軍は休む間もなく、返す刀でもう一度牛渚砦に戻り、今度は到着したばかりの樊能・于糜軍に突入。この戦での捕虜は一万人以上だと記録されている。ここでも孫策軍の諜報力が敵を大きく上回った成果が結果に現れたと見てもいい。
さて、残るはこんな状況でも、動かずに篭城を続けるほど、徹底した作戦遂行能力を持つ、オカルト教のサク融軍団のみとなった。ここで、さらに孫策軍は諜報力の差を見せ付ける奇策に出る。


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