実録!
江東の小覇王


いざ、江東へ

 

 先ずはこの頃の江東の情勢について説明しておこう。
 楊州はかなり広いし、我々には呉の肥沃な土地というイメージがあるが、実際には長江を挟んで北と南で随分差があった。長江北岸は州都・寿春を中心に良くまとまり、漢王朝の威厳も行き届いていたが、ひとたび長江を渡るとそこには山越と呼ばれる不服従民族がいて度々反乱を起こしていた。この頃の長江北岸は袁術が権威下にあったのは事実だが、南はどうだったのか?実はここには揚州刺史として劉ヨウが赴任していた。しかし州都・寿春には袁術が居座っていた為、劉ヨウは長江南岸の曲阿から支配を画策する。
 実は演義やゲームに出てくる以上にこの劉ヨウという人物は、かなりの人物だったらしく、特に彼の下にいた武将には名の通った人物が多い。あの人物評価の許邵や一世を風靡する太史慈がその代表である。家系も立派で、斉の孝王(劉邦の孫)の末息子が先祖というから、素性の怪しい劉備よりは随分明らかに思える。兄は楊州刺史の劉岱で、彼は反董卓連合にも加盟していたので、まさにエリートと言ってもいい。また荀イク伝によれば、袁術討伐の作戦として、劉ヨウと手を組む事を荀イクは曹操に打診している。この辺りからも彼が一目置かれる存在だった事は分かる。

 孫策はこの頃から、この長江南側を狙っていたと思われる。事実、朱治などもその進言を行っている。しかし孫策には兵も将も少なかった。ちょうど時を同じくして、徐州で一大事件が勃発する。徐州大虐殺がそれである。混乱状態の徐州を逃げるように多くの士人・民衆が南の揚州に避難してきた。その中に、後の呉を支える人物が多く含まれていた。孫策はこの好機を見逃さなかった。先ずは以前より交流のあった張鉱を傘下に治めると、もう一人の『二張』張昭も招く事に成功した。彼らを迎え入れる為に、本人のみならず、家族や母親の元にまで出向くのは、孫策の人材獲得の得意技だった。二人は以後、行軍の際には必ずどちらかが従軍し、どちらかが後方支援に回るという、役割を担っていたらしい。張昭に関して、こんなエピソードがある。
 当時から名声の高かった張昭にはいろんな人物から推挙や登用に関する手紙や、褒められる書簡が良く届いた。張昭は孫策に知れたら、良からぬ企みと思われ、疑われると感じ、このような書簡について悩んでいた。しかしこれを知った孫策は一笑し
「私も張昭という賢人を得て、立派に使いこなせば、後世に名がのこるであろう。」
と言ったという。

 さらに孫策は軍を率いる新しい武将の発掘も行っている。蒋欽・周泰・陳武・凌操と言った武勇に優れた武将達はこの頃に孫策配下となった。彼らは元々一兵卒だったが孫策に見出され、この頃から軍を率いるようになった。孫策の人材登用はまさに実力主義。後に彼らの力は呉建国に大きく尽力する事になる。新しい人材に加え、古参の猛者、程普・黄蓋・韓当らの指揮、朱治・呂範・孫河の孫策旗揚げ組と徐々に孫策軍は少数精鋭の形を整えていった。

 では話しをもう一度劉ヨウの方に戻してみよう。長江を挟んで袁術軍の南下を阻んでいた彼は、揚州牧・振武将軍の位を加えられ,その軍勢は万を軽く越える程になりつつあった。


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