実録!
赤壁の戦い


長江炎上

 

 いよいよ、決戦の日、黄蓋は、蒙衝艦と闘艦を数十艘選んで、船内に柴や枯草を積み込み、それらに油をたっぷり注いで染み込ませ、幕で覆って上を将軍旗で飾り立てた。こうして用意万端に整えると、ちょうど折りから東南の強い風が吹き始めたので、これらの大型船の後方に小型の快速艇を繋いで、次々と発進させた。
 ちなみに演義ではこの東南の風を諸葛亮が吹かせた事になっているが、もちろん諸葛亮が道術などで祈祷したなどという記載は、正史にはない。

 黄蓋は長江の中ほどまで進むと、帆を上げさせた。そしてたいまつに火をつけると、兵士達に「降伏します!」と大声で叫ばせた。曹操軍の将兵は首を伸ばしてこの様子をうかがい、「黄蓋が投降してきたぞ」と指差しながら言い始めた。黄蓋は、船が北岸まで二里(役一キロ)まで近づいた時、小型の快速艇を切り離すと、本船に一斉に火を放った。強い東南の風に煽られた火はたちまちに燃え広がり、そのまま火だるまの船となって、火の粉を飛び散らせながら、矢の様に北岸にひしめく敵の船を焼き尽くしただけでなく、北岸の軍営まで燃え広がった。周喩伝では、この時の模様を『煙と炎が天を覆い、人馬の焼死体や溺死体が北岸を埋め尽くした』と書かれている。

 この時を逃がさず、周喩らは軽装の精鋭軍を率いて、戦鼓の音を勇ましく上げながら、慌てふためく曹操軍に総攻撃を仕掛けた。実はこの混戦の中、功労者である黄蓋は絶体絶命の危機に立たされていた。彼は流れ矢を受け、寒中の水中へ落ちた。幸い、味方の兵に助け出されたが、兵はそれが黄蓋であるとは分からず、厠に捨て置いた。黄蓋は声を振り絞って、韓当の名を呼び、運良くそれを韓当本人が耳にする。彼らは涙ながらに濡れた衣服を取替え、黄蓋はこうして九死に一生を得たのである。歴史に名を残した、赤壁の戦いの『苦肉の策』『火計』『東南の風』の歴史上の真実はこうだ。この記述の殆んどは、『呉書・周喩伝』である。

 黄蓋の偽投降と見事な火計により、船団どころか軍営まで文字通り火の車にされた曹操は、残った船を焼き払い、軍をまとめて撤退を始めた。兵士は飢えと病気に苦しみ、その大半が死亡したとある。


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