実録!
赤壁の戦い


それぞれの開戦

 

 さて、一方の曹操の方はどうしていたのか?

 実は劉備が孫権に救いを求めた情報が入った時、諸将らの見解は「孫権は劉備を生かしておくまい」というものだった。恐らくは、曹操軍の重圧に孫権は耐え切れずに、災いの元である劉備を助ける事など出来ないだろうと思ったのだと考えられる。しかし、これとは逆の事を考えた人物がいた。程イクだ。
 彼は、
「孫権は位を継いで日も浅く、まだ全国に睨みを効かすまでには至っていない。曹操殿は天下に並ぶ者なく、この度の荊州の占領で、武威を長江の彼方まで轟かせた。孫権にどんな謀略があろうと一人で太刀打ち出来るはずがない。その点、劉備は英雄の誉れ高く、関羽と張飛はいずれも万人を敵としうる強者。孫権は必ず彼らを利用し、我が軍に対抗させるに違いない。この難局が克服され、両者が分裂した時、劉備はここで得た力をばねに独立するだろう。もはや殺す術はなくなった。」
 もちろん程イクの予想通りに進むわけだが、程イクは以前から、国も持たない劉備を必要以上に警戒していた。このわけは謎だが、先見の明があったことは言うまでもない。

 また荊州攻略後、江陵から長江の流れに沿って東向きに南下しようとする、曹操に反対を唱える者もいた。それは賈クだ。
「我が君は先に袁氏を撃破し、今回は漢水の南一帯を手中にされました。威名は天下に轟き、兵力も強大なものとなっています。ここ、かつての楚の地は豊かなる郷です。それを生かして士卒の労をねぎらい、人民をいつくしみ、安心してそれぞれの暮らしを立てられるようにしてやれば、孫権の支配する江南は、多くの軍勢を差し向けるまでもなく、頭を下げて、我が君に従って参りましょう」
 結局、曹操はこれを受け入れなかった。裴松之もこの意見には反対しているが、結果論だけ見ると、この策を受け入れても良かった気もする。
 何はともあれ、江陵に入った曹操は官民を前に新体制を宣言する。また荊州帰順の功労者十五人を列候に封じたうえ、劉表軍の大将・文聘を江夏太守に任命して従来の軍を統率させると共に、地元の名士である韓嵩・トウ義らの登用をはかった。万全の態勢を形成したうえで、いよいよ南下を開始する。


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