実録!
赤壁の戦い
赤壁戦役の影響
この戦で本当に得をしたのは誰だろうか?
曹操はこの敗戦を大いに嘆き、「郭嘉さえ生きていれば、こんな目に遭わなかったろうに」と語ったという。
しかし、そこは乱世の姦雄。すぐに軍を立て直すと、再び合肥に軍を進め、勢いに乗る孫権軍に釘を刺しておいた。この後、長きに渡る合肥の攻防戦が続くことになる。さらに彼自身は許に還り、有名な二つの布告を発表する。それが、【求賢令】と【述志令】である。さらにその冬には銅雀台も完成し、勢いは衰える事を知らなかった。
一方孫権は、曹操を敗走させた勢いに乗り、領土拡大を狙ったが、ここで失策を犯してしまう。
周喩が江陵を落とす頃、孫権は後詰めの軍を荊州ではなく、合肥に向かわせ、そこで曹操軍を包囲した。しかし、これを落とす事が出来ずにいた頃、援軍に駆けつけた曹操軍の張喜・蒋済が一計を練る。この時、彼らの軍はやはり疫病に犯されていて大した数ではなかった。しかしそれを蒋済が大軍に見せかけた為、孫権は大軍が来ると思い退却してしまうのだ。しかもそれだけではなかった。さらに孫権はこの時兵を裂き、なんと張昭に徐州を攻めさせたのである。徐州を守るのは奇才・陳登であり、とても張昭の敵う相手ではなかったと思われる。つまり孫権は、赤壁の勝利の勢いに乗り、江陵・合肥そして徐州と三方向同時侵攻を企んだが、結局孫権が手に入れたのは南郡だけだったのだ。
劉備は実質、この戦に殆んど加わらなかった。周喩の考える後の展開からすれば、劉備に活躍してもらっては当然困ると考えたのである。しかし彼はこの混乱に乗じ、漢の左将軍という位を利用して、孫権を車騎将軍に上奏し、恩を売ると、自分は荊州の牧に封じさせ、南郡太守の周喩に長江南岸の領土を借りる。すると、劉表配下にいたものや、曹操に仕方なく降った者達が続々と劉備の元に集まり始め、劉備は、このあてがわれた領地では彼らを養うのは不十分だ、として荊州の数郡を借り受ける事になる。後に大きな問題へと発展する荊州問題の発端はここだった。
赤壁の戦で一番得をしたのは誰だったのか…これだけ見ても一目瞭然であろう。
冒頭で話した通り、赤壁の戦いは、その戦自体が本当にあったのかさえ、論じられている始末。
その原因はいくつかあるが、魏書関係の列伝の中にほとんどその記述が見当たらないのが大きい。
しかし、冷静の考えれば、せっかく手にした荊州という肥沃な地を曹操が理由もなく撤退するはずもなく、やはり戦自体はあったと考えるのが妥当であろう。問題は、ここで取り上げた呉書や蜀書に見られるような大掛かりな戦があったのか?という点であろう。そもそも赤壁という地自体がどこなのかはっきりしないのだから、この真相究明は相当難しいものであると言える。
敗戦から立ち直り、南へ動く機会を再び模索する曹操。
大勝したものの、誰のために戦ったのか、損得勘定に悩む孫権。
そして、ほとんど無傷で荊州という中国のへそを手に入れた劉備。
三者三様の思いが、さらに戦乱の世を招く。
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