実録!
赤壁の戦い


決戦!江陵包囲戦

 

 周喩はこの呂蒙の策を受け入れ、凌統を残して背後を守らせ、自ら呂蒙と共に甘寧の救援に向かった。こうして甘寧を救出した周喩軍は勢いに乗って、長江を渡河し、曹仁と期日を決めて大決戦を行った。

 周喩軍の先鋒数千人が城下に迫った時、曹仁は城壁に上って観望し、ただちに三百人の決死隊を募り、牛金に率いさせて迎え撃った。だが彼らはあっという間に包囲されてしまう。これを見た曹仁は激昂して、側近に馬をひくよう命じた。陳矯はこれを諌めて引き止める。
「敵は大軍で当るべかざる勢いです。この際、数百人を見殺しにしても、止むを得ません。将軍自ら死地に飛び込むなど、とんでもないことです」
 曹仁はこれに返事もしないで、馬に飛び乗ると、数十騎の護衛兵を従えて、城門から打って出るや牛金らが包囲されている場所を通り過ぎ、敵本陣に向かって突進した。不意を衝かれた周喩軍の陣は混乱し、牛金の包囲網も崩れ始め、牛金本人も何とか脱出する事が出来た。しかしまだ脱出できない兵がいるのを確認すると、曹仁は再びとって返し、敵の真っ只中から兵士達を救出した。帰ってきた曹仁を陳矯らは感嘆の声を上げて驚き、
「将軍はとても人間とは思えない。まさしく天が遣わされたお人だ」
と驚いたという。

 さて、この戦乱の最中、周瑜は自ら馬に跨って出陣したが、そのとき流れ矢が右の脇腹に命中した。その傷は思っていたよりひどく、急遽彼は軍営へと撤退している。後に曹仁は周瑜が伏したまま未だ立ち上がれずにいると聞き、軍勢を率いて出陣してきた。もちろん一気に勝負を決するつもりだったのだろう。しかし周喩は重傷の体を起こし、無理に軍営を視察して官吏や兵士を激励した。兵らはこれに発奮し、曹仁はそれを見て、ついに江陵を放棄して撤退した。

 こうして曹操は荊州を放棄せざるを得なくなったのだ。しかし周喩がこの時受けた傷は、後々の彼と呉の運命を微妙に狂わせて行く事になる。

 曹操が南下したのが208年。曹仁が撤退したのが209年。ここまで僅か一年余りで起こった出来事である。


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