実録!
赤壁の戦い


江東、風雲急

 

 三国志の話の中で最も有名で、歴史上でも最も大きな意味の持つ戦と言えば、赤壁の戦いをおいて、他にはない。しかし意外な事に魏書における赤壁の戦いの記述はほぼないに等しい。それが『赤壁の戦い自体が本当にあったのか?』という疑問に辿り着く原因になっている。実は、魏書の他の武将の伝にも殆んどその記述はない。それどころか、確かに何十万という兵士が命を落とした戦のはずなのに、この戦で戦死した魏の有名武将は聞いた事がない。それも不思議な話だ。しかし、確かに呉書や蜀書を見れば、この戦いの詳細がいくつかの伝に見られる。ここではこれらの記述を中心に、もちろん『赤壁の戦いは存在した』という仮定で話を進めて行きたい。話は『実録!荊州逃亡劇』の続きからとして、見てもらいたい。


 命からがら、何とか曹操軍の猛迫を逃げ切り、夏口へと到着した劉備一行だったが、曹操はあっという間に荊州を手中に収め、さらに南郡そして楊州にまで攻め込もうかという勢いで迫っていた。しかし、劉備には魯粛が孫権側の使者として、盟約の締結を持ち込んでいた。諸葛亮は
「もはや一刻の猶予もありません。私が江東へ急行して孫将軍に救援を依頼して参りましょう」
と言い、孫権のいる柴桑に向かった。

 200年、孫策が暗殺されると、その後を継いだのは、まだ青年だった弟の孫権だった。孫策を警戒の目で見ていた曹操は様々な懐柔策を尽くしてきたが、彼が没すると202年、息子を人質に出すように要求して孫権の真意を探ってきた。この頃の曹操と言えば、袁紹を官渡で破ったばかりで、名実共に誰もが認める実力者となっていた。さすがに孫権も無視するわけにもいかず、重臣達を集めて相談した。しかし、それでも答えを出す事はできず、ついに孫権は母を伴ってある男へ決断するために相談に行った。孫策の義兄弟で、彼にとっても兄代わりとなっていた周瑜公瑾だ。周瑜はしばらく待って曹操が義によって天下を正していける人物なら、そう確信した時に人質を出せばよい。もし曹操が天下大乱を目論むような人物なら、自滅するでしょう、とこれに反対し、孫権は結局人質を差し出さなかった。


実録!赤壁の戦い

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