実録!
荊州南郡制圧劇


孫権、密かに暗躍

 

見所の多い潼関の戦いは、また別の項で語るとして、一旦曹操と関中連合軍から目を離してみる。もちろん荊州でいざこざを続けてきた孫権と劉備である。

建安十五年(210)、周瑜の死の喪に服していただけかと思われがちな孫権だが、意外な動きを見せている。荊州問題が新たな火種になりそうな気配を見せる中、孫権が目を付けたのはなんとその南、交州。交州七郡は中国で最も離隔された最南端の地。現在のベトナムも含む、非常に肥沃な地であり、独自の文化を持つ州。漢もここで反乱が起きても、討伐軍が出せないほどの距離がある。交州を任されていたのは交阯太守の士燮。士燮はこの不毛の地で独自の世界を創造し、軍事力とカリスマ性で異民族を統率していた。また、士燮が要領よく動き回っていた事は、漢への貢物も欠かさなかったということでも良く分かる。弟(士壱・士イ・士武)など、一族を各地の太守に選任し、自他共に認める交州の実力者として君臨していたのだ。過去、劉表も制圧を目論んだこの交州に孫権は目を付けた。

そしてついに建安十五年、歩シツを交州刺史として派遣した。歩シツが弓矢を帯びた役人千人と共に任地へ赴くと、意外にもあっさりと士燮は兄弟共々歩シツの支配を受け入れた。歩シツはこれを良しとしなかった唯一の太守・呉巨(劉表が派遣した人物)を斬ってさらし者にすると、それ以来彼に背くものはいなくなったという。孫権は士燮を左遷するどころか、さらに可官し、左将軍にまで任じて、士燮と交州の懐柔に大成功を収めたのである。

こうして呉は以後、南国の異文化の国と交易を結ぶ事が可能となったばかりか、新たなルートから蜀を狙う準備も出来たということになり、交州掌握は孫権の意外な一大事業となったのである。

ちなみに、この士燮という人物、ベトナムでは現在でも教科書に名前が出てくるほど、有名な英雄。ゲームでは群雄として描かれる事も多いのだが、基本的には漢の一役人である。しかし交州という地で、崇められた事実と、異文化を作り上げた事実で、異彩を放っている事には間違いない。

関中諸侯が曹操へ反乱の狼煙を上げた建安十六年(211)、孫権は張鉱の献策で、都を京から秣陵へ移した。実は劉備も京に来た際、秣陵へ一泊した時に、「ここに都を移してはどうか」と孫権に話していたのだ。孫権は「賢者の思うところは皆同じだな」と感心したという。秣陵はこうして翌年に『建業』と地名を変更することになる。

実は張鉱はこの遷都の後、呉に戻って家族を建業へ移そうと移動している途上で、病死している。息子(張靖)に託した遺書には、孫権に対する感謝の言葉と共に、愚者と賢者を良く見分けるべきだと強く要望している。孫権の晩年の失態を考えると、この遺書が予知の要素を持っているようにも見えて、非常に興味深い。享年60歳。この時代の中では長寿の分類にあたりそう。彼が初めて孫策に仕えたのが興平元年(194)、この時既に43歳だったことになる。ゲームなどでの老人風の風貌はこの辺りから来ていると考えるべきであろう。


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