実録!
荊州南郡制圧劇


馬騰と馬超、奇行と謎

 

馬騰の生涯の行動を振り返ると、馬超同様、掴み所のない行動が多い。

 元は羌族との間に生まれた、現代風に言えばハーフの馬騰。184年、韓遂らが起こした反乱に対し、漢は民間人から討伐軍を募集した。この時初めて馬騰は応募という珍しい形で軍に編入された。戦場ではとにかく活躍したのであろう、すぐに彼の名は響き渡り、あっという間に出世していく。しかし、この戦いで自分を採用してくれた上司は韓遂らの反乱軍に殺されてしまう。何を思ったか馬騰はここでいきなり裏切って韓遂らと合流。地方を荒らしまわるのだ。その後も官軍側・反乱軍側と戦いの都度、その立場を変え、特に韓遂とは義兄弟の契りを結んだと思いきやお互いの家族を殺したりと、奇行が続く。
 その後建安十三年(208)衛尉として召しだされたのをきっかけに馬騰は入朝することになる。馬超伝の注に引く『典略』によれば、馬騰は老いを顧みて…とある。曹操からすれば、時期的に見て南下している時期であることからも、後顧の憂いを取り除いたと見るのが妥当。しかしそれだけではなく、曹操は彼の嫡男・馬超の力が欲しかったと思われる。曹操は馬超の勇猛ぶりを聞き、これより以前、丞相になってすぐ、馬騰よりも先に馬超を招聘している。しかし馬超が応える事はなかった。馬騰が入朝したこの時も、馬休・馬鉄といった一族郎党を引き連れて皆ギョウに移住させたのだが、馬超だけは涼に留め、そのまま馬騰の部下を掌握させている。


 ところで馬超が韓遂らと反乱を起こしたのは前述の通り、建安十六年。馬騰が入朝してから三年後の話。死去したのが章武二年(222)、この時47歳だったことから考えると、馬超の反乱時、彼の年齢は36歳。ゲームなどでは若武者のイメージも強いが、意外と中年なのが分かってもらえるだろうか?世代的には孫策や周瑜が同年代ということになる。


 少し話は逸れたが、馬超の反乱をきっかけに当然馬騰をはじめ、一族郎党は三族まで皆殺しにされることになる。これはもちろん馬超からすれば十分に予測できた範疇。それでも馬超を反乱へと斯き立てたものは一体何だったのだろうか?様々な憶測が流れる中、真相は
いまだもって不明。今後の歴史研究に期待をしたいところ。

 一つ間違いないことは、馬超にとって曹操が一族の仇敵になった事。これに関しては馬超の遺言にも、それらしいことが出てくるほど。その割には実は潼関の戦い以降、武帝記はもちろん、馬超伝にすら馬超が曹操や魏と戦場で対峙したという記録はない。これに関してはまた別の機会に話をするとしよう。とにかく、馬超が謎多き人物である事は間違いなさそうだ。


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