実録!
荊州南郡制圧劇


曹操、再始動!

 

周瑜の死により、勢いを止めざるを得なくなった孫権。一方次の展開への絶好のロスタイムを与えられた劉備。二者の思惑が激しく交差する荊州を離れ、三国志の本当の主役の動きに戻ってみることとする。

周瑜の死は当然曹操の耳にも入っていたことだろう。そんな南方の情勢を計算にいれての行動か、曹操は漢中を占拠した張魯を討つべく、西へ兵を向ける。周瑜の死の翌年建安十六年三月のこと。派遣した大将は、曹操が絶大の信頼を置く鍾ヨウ。それに夏侯淵を合流させ、一気に漢中を攻略しようとしていた。

しかしここで不測の事態が起こってしまう。西に兵を向けた曹操の動向を、自分達を攻めに来たと勘違いした者がいたのだ。関中の諸侯である。彼らはこの遠征に疑心を抱き、あろうことか自分達の方から逆に攻め込んでやろうと思い立った。西涼の馬超はこうして韓遂・楊秋・李勘・成宜らとともに反乱を起こす事になった。彼らが陣を敷いた場所こそ、潼関。曹操はまず曹仁を派遣して、決して打って出ず、守りを固めるように指示。この年の秋七月、ついに自ら出兵する事になる。名策略が炸裂する『潼関の戦い』の三国志における始まり方は、実に滑稽で何とも不思議な、勘違いからの始まりであった。

実はこれに異を唱える説もあり、当館討論場において大変興味深い議論がなされた事がある。

魏書・高柔伝にはこの時の出兵の際、高柔が「今みだりに大兵を派遣すると、西方にいる韓遂・馬超は自分たちに対するものと思い叛逆を起こすでしょう」と関中諸侯の勘違いが十分に予測できる事態であったことを示しているし、何よりこれが本当なら曹操は承知の上で遠征を仕掛けたと考えられる。また、三国志集解でも著者は「曹操は先に馬超等を討ちたかったが名分が無い。そこで張魯を討つ姿勢を見せ、反乱を起こさせ、しかる後に出兵したのだ」と解釈している。

果たして真相はどうだったのか?新たな情報を広く求めたい。

 

では逆に馬超の方はどうだったのであろう?

三国志演義では、父・馬騰を始め、一族の者は皆曹操に騙されて殺された事になっているが、事実は全くの逆であることはあまりにも有名。この馬超の反乱の理由については、三国志博物館が認定する三国志七不思議の一つと言っても過言ではないほど、様々な憶測と情報が飛び交う。とにかく、この時点で馬騰が生きていた事は間違いないし、それを承知の上で馬超が反乱を起こしたことも、どうやら間違いなさそうである。では話をもう少し遡り、馬騰入朝の話をしてみよう。


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