実録!
荊州南郡制圧劇


周瑜の死、その影響

 

三国志の登場人物を考えると、活躍の場がごく限られているにも拘らず、現在において非常に人気のある人物は少なくない。そんな中でも、周瑜は特に異彩を放ち、人によっては、周瑜さえ長生きしていれば…と考えるファンも少なくない。実際に正史でも、あながちそれを否定できないくらいの、記載ばかりが残され、特に若くして死んでしまった事、負け戦の記述がまったく見られないことなど、それを推し量るに相応しい伝の内容である。そこで周瑜の死についてもう少し、掘り下げてみようと思う。

周瑜の死の真相は分からない。突然急死したと思われがちだが、遺書らしき後事を託す文章は少なくとも残されている。本伝と裴松注に二つあるが、内容は似通っている。ここではより涙を誘う『江表伝』の文を抜粋してみた。

「私には取り立てて才能もございませんのに、かつて討逆将軍(孫策)様より特別の御礼遇を頂きました。ご君主のために犬馬の労を取り、手柄を立ててご恩報じをしたいと念じてまいったのでございます。(中略)しかるに身を慎ませんでしたから、その途上にあって急病を得、先頃より治療に努めておりますが、病勢は募るばかりで衰える気配はございません。人として生まれた以上、死は避けられぬのであって、長寿か短命かは運命であり、ここで命を棄てる事を少しも惜しみはしませんが、ただ私のいささかの志が実行されぬままに終わり、もうご命令を奉ずることが出来なくなります事だけが心残りでございます。(中略)魯粛は真心を尽くして役目に励み、事に当たってなおざりな行動は致しません。私に代わって職務にあたる事ができます。人が死のうとする時、その言葉に邪意はないとされます。私のこれらの言葉に、もしご採用いただける事がございましたら、肉体が死にました後も、私は永遠に生き続けるのでございます。」

孫権はこの言葉通りに、周瑜の持っていた軍勢・所領の県を魯粛に属させ、周瑜に代わってその任にあたらせた。一部マニアの間で根強く生き続ける暗殺説も存在するが、これを見る限り、その可能性は低いと言わざるを得ない。

周瑜の年齢が出ている最後の記述は建安三年(198)孫策と、始めて軍として合流した年、この時24歳であった。死去した時の年齢は、享年36歳。逆算すると建安十五年(210)という事になり、孫策と合流してから僅かに12年、赤壁の戦いからなんと2年後の話になる。
 周瑜死去の報を聞いた孫権の悲しみの様子は、誰もの胸を打つものだったという。棺が戻ってくるとなると、遠くまで出迎え、葬儀にかかった一切の費用は孫権が全て負担した程だった。

「公瑾殿は王者を補佐する資質を持っておられたのだが、今思いがけず短命に終わった。私は何を頼りにすれば良いのであろう。」
 孫権のこの言葉が全てを物語る。また孫権は後に帝号を称することになった時、
「私は、周公瑾がおらねば、帝位には就けなかった」
と語っている事からも、周瑜の影響力・存在感が良く分かる。


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