実録!
荊州南郡制圧劇
天下二分の計
劉備が京を訪れた際、非常に面白いやり取りがあるので、この機会に紹介しておこう。
劉備は京から帰還する際、孫権は『飛雲』という大型の船(三国志の中で船の名前が残されているのは、この船だけだと思われる。相当な豪華軍船だったのではないだろうか?)に乗り、張昭・魯粛を始めとした重臣を率いて盛大な別れの宴会を開いた。重臣らは先に席を立ち、孫権は一人残って劉備と語り合った。その中で劉備は孫権にこんな話をしたという。
「公瑾殿(周瑜)は、文武両道の才略を備え、万人に勝る英傑です。その器量の大きさから考えて、いつまでも人の下に仕えておるようなことはありますまい。」
それ以前に、曹操もショウ幹を派遣し、周瑜の心を動かすために説得をしようとしたが、周瑜の心は全く動じなかった。裴松之はこのことに触れ、孫権と周瑜の信頼関係を崩そうと、曹操と劉備という二人の大物が動くほど、周瑜という人物の威名は轟いていたと、説明している。
その周瑜、ある時急遽、京に戻ってきて孫権に面談し、こんな策を献策した。
ちょうどこの頃、益州牧の劉璋は漢中に陣取った張魯の攻撃を受けていた。周瑜はこの情勢を分析し、今こそ孫瑜(孫権の従兄弟)と共に蜀を奪取。その後張魯を併呑、漢中に孫瑜を任せ、守りを固め、馬超と同盟を結ぶ。自分は蜀から襄陽を根拠地に曹操を追い詰めようというもの。簡単に言えば、北は馬超、西は漢中、蜀、荊州、揚州と多方面から一気に曹操を攻撃するという壮大な策だった。ファンが惜しんで止まない、俗に言う『天下二分の計』。周瑜は自分達が蜀に入る間、先の大敗の影響で、曹操は再び南下してこないだろうと読んだ上での大胆な策であった。
孫権はこの策を受け入れ、ついに出兵を決意。周瑜は江陵に戻って、その準備を始めようと、京を後にした。しかし、その道中巴丘において、病気を発し、そのまま死去した。
さて、ここで不自然に思えるのは、江東から蜀に行こうとする時、避けては通れない荊州の問題。周瑜の策に乗ろうとした孫権は、劉備に対して何らかのアクションを仕掛けたのか?答えはもちろん蜀書・先主伝にある。
孫権は使者を送って協力して蜀を取ろうと申し出ている。殆んどの劉備配下の者が、呉から荊州を超えて蜀を支配するなどは無理であり、協力しておけば自然と我々のものになると考え、これに賛同した。が、荊州主簿の殷観が、進んでは蜀に勝てず、退いては呉に付けこまれる。ここは賛同する一方で静観すべきと進言し、劉備はこの策を採用した。
また『荊州春秋』によれば、劉備は自力で入蜀したいと考えていたので、逆に関羽を江陵に、張飛をシ帰に、諸葛亮を南郡に配置したと解説している。どちらが正しいかは分からないが、これで孫権の入蜀の道は完全に絶えた。ちなみにこれが真実なのかは元より、これらが周瑜の死の前なのか、後なのかも全く分からない。
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