実録!
荊州南郡制圧劇


孫権、知恵を絞る

 

荊州南郡を制圧し、有能な人材を広く幕僚に迎え入れている劉備に、孫権は内心畏れるようになっていた。そこで孫権が考えた策が、劉備と婚姻関係を結び、友好関係を深めようという策であった。劉備はこれを受け入れ、京(別名鎮江・建業より東の長江上流域)まで出向いて孫権と会談、孫権の策を逆手に取り、荊州の都督になりたいと求めている。孫権側は当然これに反対したが、ただ一人劉備の希望を受けるように進言した者がいた。親劉備派で有名な魯粛である。魯粛は劉備と組む事で、強大な曹操に初めて互角に渡り合えると、孫権を説き、孫権はこれを採用し、劉備に荊州の約半分を分け与えた。曹操はちょうど手紙を書いている最中にこの一報を聞き、筆を床に落とすほどのショックを受けたことが呉書・魯粛伝に書かれている。

孫権の妹を劉備に与えた事で、さらに両者の同盟は固くなったようにも思えるが、そこは戦国騒乱の時代、さらなる計略を考える者もいた。

「劉備は野心家としての資質を備え、しかも関羽や張飛をいった勇猛無比の将を部下に持ってますゆえ、いつまでも他人の命令を聞くような人物ではありません。遠い将来を見通して、愚考いたしますに、劉備を呉に移し置かれ、彼の為に盛大に宮殿を建てて、美女を多数集めて、楽しませてやり、一方で関羽と張飛を分けて、例えば私の様な者が彼らを手足のように使って戦い進めれば、天下統一の大偉業もその成功は確かなものとなります。」

関羽・張飛を手足のように使う、と豪語出来るものは右にも左にも周瑜一人だけ。また『漢津春秋』によれば、呂範も同じ様な献策をしていたとある。

しかし、またもや魯粛がこれに反対。

「将軍様は神の如き武略によって一代の英雄ではありますが、曹公の威勢と実力はまことに大きいのでございます。ただ曹公は荊州に来たばかりで、この地に彼の恩義や信頼関係はまだ十分に行渡っておりません。それゆえ、劉備に荊州を貸し与えて、彼にその地の人々を手なずけさせるのです。曹操の敵を多くし、味方の勢力を強力にするのが、最上の計略でございましょう。」

孫権がこの魯粛の策を採用したのには、自分もまたどんな手を使っても、劉備を留めておく事は出来ないと感じていたからだ、と呉書・呉主伝に記載がある。

ちなみに、俗に『孫尚香』と呼ばれる事の多い、この時に劉備と政略結婚をした孫権の妹。多くの皆さんがご存知の通り、某ゲーム会社の完全な創作人物で、その名前すら実際には残されていない。それどころかこれだけ多くの人物の伝がある正史・三国志の中に、彼女の記載はほとんどない。

それでもゲームというごく限られた人達しか知る由もない媒体の中で、これだけファンの心を掴んで止まないというキャラクターを創造したゲーム会社の、三国志人気に果たした役割は我々が予想しているよりも遥かに大きいと思える。


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