実録!
荊州南郡制圧劇


南郡制圧後日談

 

さて、話を少し止める事にして、この荊南四郡平定戦について、後日談を含めもう少し考えてみよう。

劉備が長沙を攻めた際、その土地だけでなく、有能な臣下をも手中に収めることになる。荊州牧だった劉表に見出され中郎将として長沙の攸県を守っていた黄忠漢升。曹操が荊州を制圧した際、そのまま元の任務に当たらされ、韓玄の下に配属されていた。黄忠伝では「先主が南方の諸軍を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり…」とあることから、演義に見られるようなドラマチックな戦闘はなく、太守・韓玄共々、あっさりと降伏したものと思われる。もう一人長沙で配下になる予定の魏延だが、彼に関して入蜀以前の記述はどこにもない。演義ではこの場面で韓玄を討ち取り、黄忠と共に降伏する予定なのだが、どこからそういう話になったのか、全く不明なのである。

四郡を治めた劉備はこの地を誰に治めさせたのか?この時点での劉備陣営の力関係を知る上で、これも重要な人事。

まずは有名なところから趙雲の桂陽太守。ここでは敢えて解説はしないが、前太守の趙範との兄嫁をめぐるやり取りが有名。長沙太守に抜擢されたのは寥立。まだこの時期に召し出されたばかりの二十代に関わらずのサプライズ人事。しかし、「〜諸葛亮を軍師中郎将にして、長沙・零陵・桂陽の三軍を治めさせ〜」(諸葛亮伝)とあることから、実際には諸葛亮が政治一切を取り仕切っていた可能性は高い。

それにしても荊州という地が肥沃なのは、土地だけではなく、人材という面でもそうであったと思われる程、逸材がこの時期に数多く劉備の元に集まった。ここまで紹介した人物意外にも、鳳雛と名高いあのホウ統、外交官として活躍した陳震、馬良・馬謖を始めとする馬氏五常などもこの時期に劉備に付き従っている。

ではなかなか名前の出てこないあの義兄弟のお二人は何をしていたのか?

関羽は荊州北部の襄陽に運命の赴任を果たし、張飛はその南、宜都の太守となっている。どちらも荊州北部の要地であるが、一つ疑問も残る。

実はこの両地はいづれも江陵より北、宛や新野の南に位置する。周瑜が治めていたはずの江陵を飛び越え、彼らがその北に配置されていたとは考えにくい。これはあくまでも予想だが、この両者の着任は周瑜死亡後・荊州を孫権と分かち合った後と考えるのが妥当であると思われる。

興味深いのは、張飛がいた宜都から有能な人物が多く輩出されている事。

前述の馬良や馬謖、あの馬謖を庇った事で有名な向朗などもここの出身。時期に疑問は残るが最初に召しだしたのが張飛だったりするなら、もっと面白い話になりそうでもある。


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