実録!
荊州南郡制圧劇


劉備、電光石火

 

この頃の荊州各地の状況は狭い地域(と言っても中国の中での狭い範囲という意味)の中で、たくさんの地名が出てくるので、これを把握する事が最も重要。これを意識しながら見ていただきたい。

江陵で曹仁と周瑜が対峙して一年になろうとしていた建安十四年(209)。ついに曹仁は江陵を棄て逃亡した。孫権は周瑜を偏将軍に任じ、南郡太守の職務にあたらせた。また四つの地方の租税を私用に充てられるという破格の条件付で江陵に留まらせた。

一方、劉備は漢の左将軍として孫権を車騎将軍に、劉キを荊州刺史に上奏し、自らは荊州南の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を平定しようと目論む。

武陵を治めるのは太守の金旋。劉備は軍を率いてこれを攻撃。金旋を殺してさらに南下。長沙太守・韓玄を降伏させ、桂陽において太守・趙範を、零陵において太守・劉度を降伏させた。この後先主伝では劉キの死亡(209・後漢書劉表伝)が書かれてあるところを見ると、劉備が荊南四郡を平定したのは僅か何ヶ月かの出来事だったことが良く分かる。恐らくはそれだけ劉備の勇名がこの辺りに轟き、ほとんど無血開城の状態だったのであろう。また凱旋した劉備に、廬江郡の賊・雷諸らが数万人の兵と共に帰順するなど、劉備にとっては好都合な事件が相次いだ。

さらに劉備が運を味方にしていたことが分かるのは、先述の劉キの死。荊州牧・劉表の嫡子という大義名分で荊州を預かっていたはずの劉備だったが、その劉キが死亡したことにより、群臣らは劉備を荊州牧に推し上げた。劉備はこれに応え、公安を新たに州都とし、ついに名実共に荊州を手中に収めることに成功したのだった。

さて、ゲームの影響で勘違いしやすい事柄を一つ訂正しておきたい。

まず、ここに出てくる荊州南郡の太守4人はあくまでも太守であって、君主などではないこと。また4人とも漢の命を受け、この地を治めている事も重要な事実。つまり劉備がやった事は違う見方をすれば漢への逆賊行為とも取れるのだ。尤も曹操が荊州に兵を進めた事でさえ、そういう風に取れなくもないのだが…。

ここで、この章の冒頭で話した地名の位置関係に改めて注目したい。

実は、周瑜のいる江陵と劉備が荊州の州都とした公安は、長江下流のすぐ隣の町。わざわざこの様な地を州都と定め、軍を駐屯させた劉備の一連の動きは、孫権への牽制とも取れる。無論この時点で劉備の支配する荊州と、曹操の実質支配地は隣接していない。徐々に激しくなる孫権と劉備の腹の探りあい。最初に動いたのは孫権の方だという印象が強いのは、あの婚姻作戦が有名だからであろう。


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