実録!
荊州南郡制圧劇


歴史が求める形

 

周瑜を亡くしたとはいえ、着実に地盤を固めつつある孫権に対し、劉備はどうだったのか?もう多くの皆さんがご存知の通り、劉備もまたこの時期に新たな地盤固めへと動き出す事になる。



 後漢の時代、益州は劉焉によって治められていた。劉焉はこの地での独立を目論み、独特のカリスマ性をもって政治を取り仕切った。そしてとある女性。幻術を使いこなす、若い美女。この不思議な魅力を持つ美女に、劉焉は惹かれ、そこで劉焉はその息子を督義司馬に任じて漢中に派遣し、長安との交通を遮断させた。漢中に派遣されたこの謎の美女の息子こそ、五斗米道の張魯である。あろうことか、劉焉はこの人事の一方で、漢の朝廷には「米賊らが交通を遮断してしまいました」と上表し、貢物を止めてしまう。また益州の豪族ら十人余りを殺害して、自分の権威を高めようとした。劉焉は羌賊を手なずけ、「青羌部隊」という戦闘集団を結成。州内でも豪華な車を多数造り、その傲慢さは熾烈を極めた。

 朝廷はこれに対し、長安にいた彼の息子(三男の劉瑁を除く)の中から劉璋を益州への使者として、彼の説得にあたらせた。しかし劉焉は劉璋をそこに留め、完全に漢に反旗を翻す事になる。
 劉璋が後を継いだ頃、張魯はついに劉璋の指示を受け付けなくなり、劉璋はあの張魯の母と弟を殺害し、二人はついに仇敵となる。
 こうして歴史を正確に辿ると、劉備が入蜀に成功したのは、張魯のお陰、張魯の母のお陰、穿った見方をすれば劉焉のお陰、という考えに繋げる事もできるから面白い。



 余談だが、劉焉は興平元年(194)、背中の腫瘍が原因で死亡している。この様に病死の原因が書かれている例は非常に珍しく、「背中の腫瘍」というのが何の癌に当たるのか定かではないが、この時期に腫瘍である事を断定している、中国の医学の歴史にただただ脱帽せざるを得ない。
 ちなみにこの病死の直前、緜竹から成都に役所を移しているのだが、この原因になったのはなんと落雷。正確には、役所に落ちた雷によって起きた火災で役所も豪華な車も、果ては自分の子供達もこの火災で、亡くなったと記されている。


 張魯の専横は曹操を漢中制圧へと動かし、曹操の出兵は関中諸侯を慌てさせ、張魯と劉璋の争いは周瑜と孫権に夢を見させた。こうして見ると、歴史に無駄な動きは一つもない。全てが一つのゴールに向かって動き出しているのが分かる。
 そんな流れの中で、劉璋は何度も曹操に使者を送り、漢への忠誠を誓うという気持ちを意識させようとしていた。しかし、劉璋が曹操に放った何度目かの、ある使者が帰国後、曹操との縁を切るように勧めることになる。



 全ての出来事は、劉備に大きな地盤を持たせるため、動いているようにも見える。


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