実録!
荊州南郡制圧劇
曹操、不動
建安十三年(208)赤壁の戦いで大敗を喫した曹操だったが、曹仁らを江陵に残し、軍を引き上げた。意外と知られていないが、実は曹操は翌年建安十四年(209)三月、ショウにおいて軽快な船を作り水軍を訓練させ、その年の七月にはまた合肥に陣を敷いている。つまり、まだ江東への野望を捨てきれていなかったと考えられる。しかし、この時また軍中に疫病が蔓延したため、同年12月には早くも撤退した。
建安十五年(210)春、曹操は過去の儒教の概念を振り払い、後の世に大きな影響を与える布告を発した。
「古代以来創業・中興の君主で、賢人君子を見出し彼らと共に天下を統治しなかった者がおろうか。君主が賢者を見出したについては、まったく村里に出なかったらどうやって会えたというのだ。上にあるものが捜し求め起用したからである。今、天下はなお太平を見ない。今こそ賢者を求めることを急務とすべきである。(中略)今、天下に粗末な衣服を着ながら玉の如き清潔さを持って、イ水の岸辺で釣りをしている者(太公望の事)が存在しないと言えようか。(中略)二、三の者よ、わしを助けて下級の位にある者を照らし出して推薦してくれ。才能のみが推挙の基準である。わしはその者を起用するであろう。」
才能のある者を、身分を問わず起用する…これが俗に言う『求賢令』。
またこの年の冬には銅雀台を完成させ、12月に布告を出した。それには自信の半生が細かく書かれ、これによって漢王朝が成り立っている事、自分が己の欲で動いているのではなく、漢を復興させるために軍を率いている事、過度な重圧を排除するために領土の一部を返還するといった内容が書かれていた。
「もし国家に自分がいなかったら、いったいどれだけの輩が、皇帝を、あるいは王を僭称したであろう」
この布告は見方によっては自分がいるから国家が成り立つという脅迫じみた文にも取れ、文才ある曹操の、一流の文章『述志令』としても有名である。事実、帝は即刻返事を送り、要望通り曹操の領土の五千戸を削減したが、さらに上乗せした計一万五千戸を五千戸ずつ分割して、曹操の三人の息子(曹植・曹拠・曹豹)に与えている。
つまり、赤壁で大敗を喫し、勢いが衰えたかと思えば、まったくそんな事はない。逆に曹操の勢い・影響力は増大し続け、中原においてその威名は響き渡っていた。
では話を再度、長江沿岸の最前線に戻してみよう。
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