実録!
荊州逃亡劇


無血降伏の真相

 

 曹操が南下を開始する少し前に劉表は病死しているが、演義では臨終の際に国の将来を劉備に託すシーンが用意されている。これは『魏書』と『英雄記』に似たような記述が残されている。しかし蜀書・先主伝で、裴松之は劉ソウにほぼ確定してた現状や、劉備を疎ましく考えていたはずの劉表が荊州を譲るはずがないと反論している。
 曹操南下開始の一報を聞いた劉ソウに、カイ越・韓嵩・傅センらは曹操への降伏を一斉に勧めた。しかし劉ソウは不満を漏らした。
「私は諸君らと共に荊州全土を掌握し、亡き父の事業を守り、天下の情勢の変化を見守りたいと思う。それがどうしていけないのか?」
「物事には順逆があり、強弱があります。だいいち、将軍ご自身は劉備より上だとお思いでしょうか」
「いや劉備の方が上だ」
「その劉備が曹操に手向かえないとすれば、我々が生き残れるものではありません。また仮に劉備が曹操を防いだとしても、いつまでも将軍の下に甘んじてはいないでしょう。どうかご決断下さい」
 こうして、劉ソウはまだ曹操が到着しないうちに、早々と降伏を決めてしまう事になる。ちなみに劉ソウは降伏後、列候に取り立てられたが、同じようにカイ越・韓嵩ら劉表臣下十五人も列候となり、彼らが近辺に残されたのを尻目に劉ソウ本人は青州刺史として遠方に離れている。彼らの保身の為に利用された感は否めない。

 2つ余談を書いておこう。荊州を手にした曹操は荀イクにあてて、こう手紙を書いた。
「荊州を手に入れたからといって、別にどうという事はないが、カイ越を手に入れたのは大きい」
 カイ越とは秦から漢にかけての天才策士・カイ通の子孫で、曹操にそれだけ認められるほどの人物だったのであろう。214年に亡くなる時には、自ら曹操に手紙を出し、家族の事を頼んだというから、その後の関係も容易に想像できる。
 もう一つ、劉表の墓は死後80年余経ってから、晋の時代に発掘されている。劉表と彼の妻(祭氏?)の体はまるで生きているかの様に綺麗に埋葬されていたという。かぐわしい香りが数里先まで漂っていたと残されている。


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