実録!
荊州逃亡劇


中原の動向

 

 三国志演義の中でも絶対的な人気を誇る劉備軍の活躍する戦は人気が高い。
 呂布と三兄弟の戦いを描いた『虎牢関の戦い』、諸葛亮の呼んだ風が連合軍を勝利に導いた『赤壁の戦い』、当然主役の戦なのだから、多くて当然なのだが、その中でも特に人気の高い戦は『長坂の戦い』であろう。張飛の大見得も格好いいし、趙雲の単騎駆けもたまらない。もちろん死を賭してまで、劉備との危険な逃走を選んだ荊州の民の美談も素晴らしい。しかし、実際正史に残っている荊州の逃走劇に関する記述は驚くほど少ない。

 201年4月、官渡で大勝を治めた曹操は黄河を渡って北へ逃げた袁紹を追い、北上しようとしていた。これより前に袁紹は劉備を汝南に派遣し、曹操の後方を撹乱させる作戦を取っていた。曹操は曹仁を派遣し劉備を討つよう命じたが、劉備は殆んど戦わないまま、袁紹の元に逃げ帰った。
 さらに劉備は袁紹を見限り、劉表との同盟を進言し、荊州へ行き袁紹の元を離れようと考えた。荊州に向かう劉備を曹操は見逃さず、蔡陽を送って今のうちに叩こうとしたが、これは劉備に破られる。同年9月、曹操は離反した郡や県を平定し、一旦許都に帰還すると、ついに自ら南征の軍を起こして劉備の討伐に赴いた。衆寡敵せずと見た劉備は、幕僚の糜竺と孫乾を荊州に派遣し、劉表に挨拶に向かわせ、そのまま荊州へ逃げ込もうとした。
 袁紹軍から兵を補充したとはいえ、敵は本拠地も持たない劉備軍。兵の数は数千程だったという。曹操はなぜそんな劉備討伐にこだわり、大軍を動かしたのか?もちろん劉備という人間を曹操が警戒し、裏切った事に対して恨んでいた事もあるのだろうが、これには劉備が逃げ込もうとしたのが荊州の地というのが深く関わっていると考えるのが無難である。先ずは荊州の劉表について追ってみよう。


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