実録!
反董卓連合軍


謎と新たな時代

 

 さて反董卓連合軍についてまとめてみよう。

 連合軍に発起人やプロデューサー的人物が存在しなかった事については触れたが、勘の良い方なら、ここまでの話に抜けていた部分があった事に気づいているだろう。あの虎牢関の戦いが出てきてないのだ。演義では、関羽が華雄を殺し、呂布が劉備三兄弟と熱戦を繰り広げるあの場面だ。残念ながら、この戦いは存在しない。しかも華雄を討ち取ったのは関羽ではなく、孫堅軍だった。水関に至ってはそういう場所すら存在しない。

 孫堅が焼け野原になった洛陽の整備をしている時、玉璽を手にしたことは確かに正史に記されている。しかし正史の注釈をしたハイ松之は孫堅は忠義の人物で、玉璽を手にしたのなら持って帰るような真似をする人間ではなかったはずだ。とこれを真っ向から否定している。事実は今の段階では分からないが、後者の言い分が一理あるような気がしてならない。
 また袁術がこの頃、かなりの人物として力を持っていたことも書いたが、袁術はあくまでも、袁紹らが発起した後、追従して旗揚げしていたため、身分は格上だったが、盟主と呼ばれる事はなかった。袁術は袁紹の事を「めかけの子」と公言し、嫌っていたが、孫堅が北上して陽城を本拠地に置いた事を知ると、別に太守を陽城に送り込み、孫堅の北上と袁術の介入をけん制している。この行動は二袁を反目させるのに十分なきっかけになった。袁術はすぐさま孫堅と公孫越を送り、攻撃している。そしてこの戦で公孫越は命を落とした。この一連の動きは後の袁紹Vs袁術・袁紹Vs公孫賛・袁術Vs曹操と、様々な人間関係に影響していったのだ。

 たくさんの有名武将達がそれぞれの大義名分を振りかざして、一様に集まった連合軍の真実が垣間見えただろうか?この連合の動きの中で、正史にデビューする武将達も少なくない。まさに『嵐の前の嵐』的事件だったのだろう。

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